線に込める「気配」🔒

構図は、パッと決まることもあれば、自分のイメージに近づけるために、かなり時間をかけて工夫することもあります。植物を見た瞬間に閃いたイメージがあっても、それがボタニカルアートとして学術的に合っているかどうかも考えなければなりません。

「ここに葉っぱがあってはいけないな」などと考えながら、思わずひとりで笑ってしまうこともあります。以前、彼岸花を描いたときは、三日間悩んだ末に描き始めたものの、どうしても何かが違うと感じて、途中で筆を置いてしまったこともありました。そういう時は、いったん頭を空っぽにしてから、また改めて向き合うようにしています。それほどまでに、私は「構図」が重要だと感じています。

華(はな)を編み、風を描く

植物は思い思いの方向へ、主に太陽に向かって伸びていきます。その姿を、地面に生えているままの状態で画用紙の四角い枠の中に収めることはできません。

これは、モデルさんに例えると分かりやすいかもしれません。きちんと化粧をして服を着せ、ポーズをとってもらうことで初めて「絵」になります。どんなに美しいモデルさんでも、すっぴんでだらしない格好のままでは作品にならないのと同じです。

切花であっても、花には必ず「正面」があります。一本描くだけでも、茎の線ひとつで絵の印象は大きく変わります。たくさんの茎や花を描く場合は、一本の鉛筆の線がより重要になってきます。線の曲げ方ひとつで、まったく違う世界になってしまうからです。

華道の記憶と線の「機微」

これは華道にも通じることかもしれません。私はガラス作家だった頃、花器を作るために草月流を習っていました。花を生ける器は、器だけが良くても、花だけが良くても美しくはなりません。一体となったときに、互いの良さを引き出してこそ完成するものだと学びました。その経験は、今の制作にも確実に息づいています。

ボタニカルアートは「見たままを描く」とよく言われますが、それはもちろん大切なことです。けれど私は、そこに空気や風、揺れ、そして匂いまで伝わるような絵を描きたい。そのためには、線ひとつ、配置ひとつが妥協できない要素となります。

道端の植物を見ながら、「この子にはどんな構図が合いそうかな」と考えつつ、愛犬の散歩をしていることもよくあります。線に妥協せず、たとえ花がうまく描けたとしても、配置や葉っぱを含めてすべてが一つの物語になる。そうして積み重ねた先に、自分だけのオリジナリティが生まれてくるのだと、私は確信しています。

©宮澤 香代子

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